やけっぱちのマリア

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あらすじ:中学1年生(※ただし1年留年)の焼野矢八・通称ヤケッパチは、地元では名の知れた不良少年だ。しかし最近は様子がおかしい。彼は自分が男にも拘らず妊娠したのではないかと悩んでいるというのだ。誰にも信用されない中、彼はとうとうエクトプラズムの“子供”を出産する。性別は女性だと主張するそのエクトプラズムは、ヤケッパチの父親が作ったダッチワイフを肉体として与えられ、マリアという名を授かった。かくしてヤケッパチとマリアは立派な大人になるために、秋田先生から性教育を受けることとなった——。1960年代末期から幕を開けたハレンチ・ザンコク時代の漫画業界に手塚治虫が参戦するべく描かれた伝説の性教育漫画。

50年前に規制された性的すぎる?手塚漫画

 2021年10月中旬、一部オタクのあいだに激震が走った。表現規制反対派と思われていた日本共産党が、総選挙に向けた政策として表現規制を肯定するかのような文章を発表したためだ。

 現行法は、漫画やアニメ、ゲームなどのいわゆる「非実在児童ポルノ」については規制の対象としていませんが、日本は、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の主要な制作国として国際的にも名指しされており、これらを適切に規制するためのより踏み込んだ対策を国連人権理事会の特別報告者などから勧告されています(2016年)。非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます。

7、女性とジェンダー(2021総選挙/各分野政策)│各分野の政策(2021年)│日本共産党の政策│日本共産党中央委員会

 この文章で特に衝撃を与えたのは“非実在児童ポルノ”の部分だろう。“非実在”は2010年に石原慎太郎都知事(当時)が提出した東京都青少年健全育成条例改正案において、漫画やゲームなどの表現規制を強める趣旨で使われた言葉だった(正確には“非実在青少年”)。その言葉を用いた上でのこの文章に、表現規制に敏感な層のオタクの多くが「日本共産党は表現規制派に舵を取った」と感じた。

 表現規制の話になると規制派の多くは「規制されるのは有害なものだけ。まともな内容であれば規制の対象外だ」と主張する。そして、そういうタイプは“まともな例”として決まって手塚治虫を挙げるのだが、この主張は彼らが表現規制についてなにも知らないことを示している。近代漫画文化の礎を築いた手塚治虫こそ、表現規制のターゲットとして激しい批判に晒されたひとりだったのだから。

 この『やけっぱちのマリア』も、激しく批判された手塚漫画のひとつである。1970年4月から少年チャンピオン(現・週刊少年チャンピオン)で連載が開始されたものの、同年8月にはその内容が問題視され、福岡県児童福祉審議会によって少年チャンピオンごと有害指定を受けた。まさに“手塚漫画でも規制される”の好例である。

『やけっぱちのマリア』執筆のきっかけは、永井豪の『ハレンチ学園』にあったとされる。かなりの頻度で裸体が登場したというこの漫画は、メディアに発見されるや否や盛大なバッシングを受けたものの、少年たちには大好評であった。それ以外にもいくつものハレンチ系の漫画やザンコク系の漫画が次々と発表されては社会問題になりつつも人気を博しており、手塚治虫は自分なりに守り続けてきた漫画におけるタブーが急激にひっくり返されていく状況を見て“ヤケッパチ”になった——ということらしい。(手塚治虫公式サイトより参照)しかし手塚治虫は、ただムーブメントに乗っかっただけではなかった。どうせやるなら、子どもたちに“性”とはなんなのか、教えてやるぜ! と言わんばかりに、医学生時代に培った性の知識をぶちまけたのだった。

 当時は性的な言及が多いことで問題になったようだけど、2021年の今においては、その辺はもはや何の問題もないように思う。しかし代わりに、ポリティカル・コレクトネス(以下・ポリコレ)的にアウト判定を喰らう内容である。例えば、男性は男性ホルモンが多いから男っぽく荒々しくなって女性に恋をする、とか、女性は女性ホルモンが多いから女らしくナヨナヨし男性に恋をする——とか、性別によって役割や趣味・嗜好を固定する解説がちょくちょく出るのだ。今は男らしくない男性、女らしくない女性がいても良いし、そうでない人を責めるのは差別的である、という風潮だからね。

 しかしポリコレ的にアウトなのはそれだけではない。近年、ポリコレを支持するような人たちのあいだでは、身体の性別と自分が認識している性別(以下・性自認)が異なるトランスジェンダーの存在が注目されている。彼らは、人々の性別は生まれ持った身体ではなく、性自認を基準とすべしとしている。身体が女性であっても性自認が男性であれば、そのひとは男性として扱われるべき、ということ。でも、身体は女性だから、その男性は妊娠することができる。つまり、『やけっぱちのマリア』は、第1話の4ページ目、男のくせにニンシンしたんだ!!というセリフによって、早々にアウト判定を喰らう可能性があるのだ!

「男のくせにニンシンしたんだ!!」

© Tezuka Productions

 しかもこのあとさらにニンシンってアノ 赤ん坊が生まれることか? バッカヤロー まさか男が……ねえ ヤケッパチ 赤ん坊ができるっていうことは 女しかできないのよ 女と男とはからだが……などと続く。トランスやポリコレから離れた場所にいる人間からしたら、単に男女の身体の差を説明しているだけでしょう? という感じだが、トランスジェンダーやポリコレに熱心な層からしたら、思想の全否定に近いのではないか。ヤケッパチの妊娠はあくまでエクトプラズムという心霊現象であり、厳密には妊娠ではない、男性である以上それはありえないという内容だからね。

 ちなみに、トランスジェンダーの中には日時によって性別が変わる人もいるらしい。今日は女性だけど、明日は男性かもしれない——みたいな。で、先述したように、性別は身体ではなく性自認を基準とすべしという人たちがいて、そうした人は性自認とは異なる性別で扱うことはトランス差別にあたると主張している。つまり、昨日会った時に性自認が男性だと主張していた人に男性として接したら、今日の性自認は女性なのに男性として扱われて不快だ、差別的だ——と言われる可能性があるということだ。

 で、今だとその“性自認”というのが“生物自認(?)”とか“人種自認(?)”みたいに拡大傾向にあるらしく、“彼”ではなく“木”と呼ばれたいと言うオーストラリア人BTSのジミンに憧れた結果「韓国人」を自認するノンバイナリーのイギリス人みたいな人が、西洋のメディアでちょくちょく取り上げられている。

 そういう時代に『やけっぱちのマリア』を見ると、ちょっと面白いんだよね。というのも、ヤケッパチから生まれたマリアは基本、ヤケッパチの親父から譲り受けたダッチワイフの姿でいるけれど、あくまでエクトプラズムだから、いろんなものに乗り移ることができるのだ。乗り移る先は人形だったり、車だったり、ピンポン台だったりする。身体は持っていないけれど性自認はあるという設定と合わせると、現代を予見したかのような内容だ。

 でも手塚治虫がこの設定を使ったのは、現代を予見したからではないのは明白である。物語開始早々に、ヤケッパチがエクトプラズムのマリアを生んだのは、幼い頃に死んでしまった母親に対する憧憬の念があったためと説明されるからだ。ヤケッパチの親父は、一人息子に厳しく接した。それは母親亡き後も強く生きられる男にしたいという親心からだったが、結果的にヤケッパチは荒々しい性格になり、それゆえに同級生から敬遠され、常に孤独感に苛まれる少年になってしまった。母親を知らないヤケッパチは、もしも母親がいたら——母親でなくても、姉や妹でもいい。とにかく大切に感じられる女性が身近にいたら、この孤独感も埋められたのではないか? そんなヤケッパチの気持ちが具現化した存在、それがマリアだったのだ。

 早い話、これは母離れ・子離れの話なのだ。作中でマリアが“ヤケッパチの分身”と称されるのも、そのせい。ヤケッパチは次第にマリアを子供ではなく恋人に近い存在と感じるようになり、マリアと相思相愛になる。だが、終盤になると、ヤケッパチは突然現れた普通の女の子・マリに恋心が芽生えてしまう。それを知ったマリアは、ヤケッパチが自分から離れていくことに寂しさを覚えつつも歓迎し、彼の幸せを願いながら別れを告げる。そしてヤケッパチも——。

 このあたりは、理想的な親子関係そのものだよね。一般的に、親は子供からいろいろと学ぶことがあるとか言うじゃん? これがマリアの子供の部分。で、一般的に、親は妻や夫よりも子供の方が可愛く感じるとか言うじゃん? これがマリアの恋人の部分。で、一般的に、親は子供が結婚すると、寂しいけれど嬉しいとか言うじゃん? これがマリアの母親の部分だ。あんまりにも無茶苦茶な設定の漫画だけど、実はすごくしっかりしてるんだよね。

 そういう、ちゃんとした親子関係が凝縮されたヤケッパチとマリアの別れの場面を見た時——私は涙腺が緩んでしまったのだ! 歳を取ると涙腺が緩くなるというのを最近実感してはいるものの、まさかダッチワイフとの別れを見て泣きかけるとは思わなかったよ!(笑)

 手塚治虫は後年になってこの漫画を“駄作”と自嘲したことがあるらしい。たしかに設定は荒唐無稽だし、その荒唐無稽さから、執筆当時のハレンチ・ザンコク系の流行に対抗したいという勢いだけで描いたのだろうと感じるところもあるけれど、しかしそうした“勢いだけでむちゃくちゃな話”を一応はちゃんとまとめているあたり、やっぱり“漫画の神様”の異名は伊達ではなかったのだと再認識させられる。

 先述したように現代視点で見れば男女の性別というか、ホルモンの働きを過大評価しすぎなきらいはあるのだが、その辺を丁寧に描いているがゆえに、価値観や常識の変化を感じられる貴重な資料に思えないこともなく、それはそれで面白い気がする。もしも今の時代に手塚治虫が存命だったら、トランスジェンダーの存在をどのように描いたのだろうか? それは永遠の謎となってしまったわけで、考えても仕方がないのだが、この『やけっぱちのマリア』を読んだら、そんなことを思わずにはいられないのだった。

やけっぱちのマリア 1

少年チャンピオン・コミックス

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