マノン・レスコー

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あらすじ:旅の途中に立ち寄った町・パシーで、たくさんの人々が群がっているひとつの宿屋を見つけた。彼らの視線の先にいたのは、互いの胴を鎖で繋がれた娘たち。彼女らはオピタル・ジェネラル—素行不良な者を強制収容する施設—から連行されてきたらしい。その中でも特に私の目を引いたのは、際立って美しい容姿を持った娘と、彼女の恋人と思われるひとりの青年であった。我が恋人から離れまいとする青年に同情した私は、愛する男女のために多少の金貨を施した。それから2年の月日が流れたある日、私は偶然その青年と再会を果たし、あの娘と彼の身の上、そしてふたりの生活のすべてを知る機会を得る。

300年の月日は長いよね

 300年近く前——1731年にフランスで発表された1作。書名にもなっている“マノン・レスコー”は、持ち前の魅力で男性を翻弄する女性“ファム・ファタル”、日本でいうところの“魔性の女”の代表格というか、元祖とも言える存在であるらしい。しかし初めてこの書に目を通した時——二十歳そこそこだった私は、彼女のどこがそんなに魅力的なのかサッパリわからなかった。

 マノンは青年・グリュウに想いを寄せられたのをいいことに、彼を操り人形のように操っているようにしか見えなかったし、新潮社文庫のあとがきにあるような汚れを知らぬ少女のように可憐な人物とはまったく思えなかったのだ。一方のグリュウが彼女に入れ込む理由もよくわからず、彼女に再三裏切られながらもマノンのことばかり想っているグリュウは底抜けの愚か者にしか感じられなかった。

 数年ぶりに読み返してもやっぱりマノンの魅力はわからなかったが、しかし例の「汚れを知らぬ少女のように可憐」というマノンの評はなんとなく理解できた。三度の飯よりも自由奔放な生き方を愛するマノンにとって、この世でもっとも重要なものは貨幣であった。しかしマノンは財力のないグリュウとともに生きることを望み続ける——彼よりもよっぽど財力のある男性に言い寄られるにも関わらず。つまりマノンは冒頭に書いたような「グリュウを操り人形のように操っている」わけではなく、本当に彼を愛していたのだろう。

 尤も、貨幣の誘惑からは逃げられず「あいつの財産をちょろまかしてふたりで逃げましょ」なんてふざけたことを繰り返したせいであのような幕引きを迎えるのだが、そうした無謀なことを無邪気にやってのけようとするところも、見方を変えれば「汚れを知らぬ少女」といえるのかもしれない。(「汚れを知らない」というよりは単なる無知といえるが——)

 それに対してグリュウは相も変わらず愚か者にしか見えなかった。まず本書の語り手がグリュウであるせいで、彼がナルシシストっぽく見えてしまうのが難点だ。物語が始まっていきなり私は品行方正の、穏健な生徒だった学業の優秀人好きのする容貌と、目もくらむほどの自画自賛を浴びせかけてくるし、その後も誠実で優しい性質だの生まれながらの美貌だの、臆面もなく自分を飾りつけ続けるので、こいつはどんだけ自分が好きなんだよと失笑してしまう。

 そのくせ作中の彼の行動は品行方正でも穏健でも頭がよくも誠実で優しくともなんともなく、読み進めるに従ってその自画自賛は滑稽なものになっていく。なんせグリュウは、マノンのケツを追っかける以外のことはほとんどなんにもしていないのだから。

 こうした感情が沸き上がってくるのは、マノンの容姿に関する描写が乏しいせいもあるだろう。作中で彼女を形容する言葉はほぼ“美しい”のみに限られており、具体的な姿形を描写するものはないに等しいため、頭のなかでマノンの姿形を具現化させることが難しい。そこにマノンの性質とグリュウのナルシシズムが加われば「グリュウは自堕落女に翻弄されているだけのアホ」との認識に至るのも無理はないのではないか。

 訳者の青柳瑞穂はあとがきにて人間に恋愛の感情がなくならないかぎり、つまり、人間が人間であるかぎり、『マノン』は今後も永久に生きるであろうと述べているが、私からすれば価値観も文章もすべてが古くさい本書が、本当に今後も生き続けるかというと微妙なところだと思う。少なくとも青柳瑞穂のいうところの世界の子女紅涙をしぼっていく姿は想像できないな。

 まあ文学的地位はあるから仏文学者や文学愛好家の研究・学習用の書として存在はし続けるだろうが、私のように娯楽や興味本位で文学をつついている人間であれば、わざわざ読むべき理由もないように思った。

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