黒地の絵 傑作短編集(二)

公開

あらすじ:朝鮮戦争が激化する最中の1950年7月。福岡県小倉市にある米軍基地・ジョウノ・キャンプでは、どこからかやってきた米兵たちが集まっては朝鮮戦争へ消えていくのを繰り返していた。苦境にあった米軍兵士の彼らにとって、ここに来るということはすなわち死の宣告であった。基地内に不穏な空気が漂う中、小倉市民たちは毎年恒例の伝統ある祭典を開き、町中に太鼓の音を響かせる。目前に迫った死への恐怖と平穏な祭りのはざまに置かれた米兵たちは、自由を求めて基地から這い出し、市民のもとへ向かっていく——。GHQによって隠蔽された米軍犯罪を精密な取材で掘り起こした表題作のほか、9作の短編を収録した短編集。

隠蔽された米兵犯罪に挑む力作

 いきなりすごいことを言うけれど、松本清張を読んだことがない。母が清張のファンで家にたくさんの清張本があったから興味がないことはなかったが、私は“本屋やネットで自分の好みに合いそうな本を自分で選んで買う”という一連の動作が好きだったので、興味はあるけれど身近すぎる清張にはなかなか食指が伸びなかった。

 そんな清張を、ついに読む日がきた。私はかねてから清張の短編のひとつにとても気になっていたものがあったが、2020年になってそれを読みたい気持ちがムクムクと膨れ上がってきたのだ。そこで母に該当作品を収録した本を貸してくれと伝えたところ、なんと持っていないという。清張は多作な作家だったし、その人気から没後も手を替え品を替え短編集が出版されまくっているので(この『—傑作短編集』も全6巻らしい)、10冊は下らない数の短編集を持っている人でも未読の作品があることに不思議はない——が、すぐに読めないとなると、よけいに読みたくなるのが人間のサガ。というわけで、手に入れたのがこの本だ。

 気になっていたのはこれに収録されている作品のうちのひとつだけだが、収録順にすべて読んでいくつもりで本を開いた。初めて読む作家だから、相性が良くなくて途中で挫折するのではないか? という一抹の不安を抱えながら。

二階

 あらすじ:恢復の見えない病に失望し、療養所を出たがっていた夫・英二を連れて自宅に戻った幸子は、夫の看病のために付添看護婦として坪川裕子を雇った。30代半ばで経験豊富な彼女に感心していた幸子だが、次第に夫と裕子がふたりきりで過ごす二階に不穏な空気を感じ始める。

 ——というわけで、私が初めてまともに読む清張作品になったのがこちら。いくら名作家といっても、あれだけ多作だとイマイチなものもあるだろうし、そもそも人間には好みというものがあるからね。特に短編集となると1作目がダメだと2作目以降読む気がおきなくて、そして伝説へ…となりがちである。ここでキマらなかったらかなりまずい。

 そういう、謎のプレッシャーを感じながら読んだけれど、いざ読むと——いやあ、素晴らしいねえ、これ。まるで無駄のない流れるような文章で、幸子の心境をこれでもかと言わんばかりに表現している。私は不安や恐怖に駆られた人間の心理描写が好きでな。それが内向的で孤独で、説明し難いものであればあるほどいい。この短編の心理描写はまさにそれだったよ。話の畳み方も素晴らしい。奪われていたのか、奪っていたのか。奪われていたのなら奪還できたのか、できなかったのか。答えの見つからない最後が実によかった。

拐帯行

 あらすじ:土曜日の夜、隆志は会社の金を忍ばせたカバンを手に、恋人の久美子と博多行きの列車に乗った。ことが公になるまでのわずかな時間を楽しみ、公になる頃には久美子と最期を迎えるための旅だった。その旅の予定は、偶然目にした初老の夫婦によって変わっていく。

 うむ、普通である。いや、「二階」ほど心理描写に切り込んでないっていうか、ただ淡々と進むだけだなあと……。話も普通で、オチにも意外性がない。意外性のないオチでも文章(演出)次第ですごく化けることはあるけど、これは本当に淡々と進むだけだから、ふーん……としか。つまらないわけではないけど、どこまでいっても普通。

黒地の絵

 表題作。1950年に発生した小倉黒人米兵集団脱走事件(以下・小倉事件)をモデルにした1作。この事件では、米軍基地から脱走した黒人兵たちが商店や民家に押し寄せて略奪や性的暴行を行った。加害者たちは裁かれることなく戦地に向かい、戦死したといわれる。

 事件の起きた福岡県小倉市(現北九州市)は清張の生まれ故郷であり、事件が発生した時もここで暮らしていた。幸いにも被害を受けることはなく、事件の翌朝になって人々が騒いでいるのを見てなにかしら起きたことを知ったという立場だった。地元紙では申し訳程度ではあるものの事件について報じられたが、GHQの影響が強かった時代のため、全国的な報道は行われなかった。その後、作家になり上京した清張は、誰もがこの事件を知らないことに衝撃を受けた。このまま隠蔽させてはいけない——その感情が、この作品を生み出した。

 私が冒頭に書いた“気になっていた清張の短編”とはこれのことだ。私は20歳ごろに米兵犯罪についてザッと調べたことがあり——といってもほとんどの情報源はインターネット、ついでテレビ、といった具合だったが——、小倉事件を知ったのもその時だった。しかし隠蔽された事件とあって情報に乏しく、陰謀論めいているようで半信半疑にならざるを得なかった。そのあと、清張が精密な取材を経て完成させた短編があり、かつ当時の地元の新聞にも一時的ながら事件に関する報道があったことがわかり、多少信憑性が増してきた。とはいえ、偉大な作家が作品の基にしたぐらいでは事実とは断定したがいし、問題の新聞記事も見たことがない。やはり全面的に信じるのは難しかった。

 しかし最近、ふたたび米兵犯罪について振り返っていたところ、アメリカの新聞紙・St. Petersburg Times(現在はTampa Bay Timesというらしい)が1950年に出した以下の記事にたどり着いた。


St. Petersburg Timesの1950年9月3日の記事

兵士に死刑判決が下る

 ミシシッピ州マークス出身の新兵・ジェームズ・L・クラーク(22)は、日本人4人を殺害した罪に問われた軍事裁判により、死刑が宣告された。

 証人によれば、クラークは今年の7月にカキさん宅を訪れ、ジャゴジロウさんとその妻、息子ふたりを刺し、致命傷を負わせました。家族の唯一の生存者である7歳のケイコさんは、家族の悲鳴を聞いて避難していました。米兵と小倉の将校夫人クラブは、ケイコさんを支援する基金を設立しました。

 クラークは第11戦闘工兵大隊に配属されており、犯行前夜には酒を飲んでいたといわれています。彼の刑は陸軍総司令部の審査を経て、大統領の承認を得たのちに執行されます。

St. Petersburg Times, Sunday, September 3, 1950

 小倉事件について語られる時、その1週間前に同じ地域で発生したとされる黒人兵による一家殺害事件にも触れられることが多い。この事件の話は清張の耳にも入ったそうだが、『「黒地の絵」-松本清張のダイナミズム- 評伝松本清張:昭和33年』によれば、『松本清張全集34 半生の記』において新聞には決して載らないことだった口から口に伝えられるだけで、市民は半信半疑だったと述懐しているという。つまり、小倉事件と同じくGHQによって隠蔽された事件で、小倉事件よりもさらに情報が乏しいものだった。

 上記の新聞記事が伝えている事件は、この事件とまったく内容が一致している。しかもこれはアメリカの新聞記事だ。もはや疑いようがない。小倉事件はあったのだ! そうして、これまで漠然と気になる程度だった「黒地の絵」にも俄然興味が湧いてきたわけだ。

 結論から述べると、とてもよくできた作品だった。先の2作と比較して明らかに性質が違っており、事前情報なしに読み始めた場合は困惑しそうなくらいだ。なんせしょっぱなから実際の新聞記事の引用に2ページを割いているのである。清張は実在の事件から着想を得ることがよくあったが、この2ページもの引用からは、作品の元となった事件があったことを確実に知らせたいという執念のようなものを感じる。物語の中心となる前野留吉の体験は、文春オンラインによる小倉事件についての記事『「主婦が襲われた、夫の眼前で…」夏祭りの夜の惨劇…小倉でおこった米兵「250人」脱走事件』のタイトルに触れられている一件を土台にしているのは明白だ。被害者の男性は事件から立ち直ることができず酒に溺れ最期は溺死したそうだが、清張は留吉に激しい復讐心を煮えたぎらせた。

 この作品について、海外では人種差別だとする批判があるらしい。要するに“黒人の描き方が悪い”という、戦後日本で創作物が常に悩まされてきたアレである。私はほんの1年ほど前までポリコレにかぶれていた——という言い方もアレだが、とにかく、私はその概念を肯定的に捉えており、「黒地の絵」に興味をそそられつつ手にできなかった理由のひとつもそれだった。要するに、いくら実際の事件をベースにしたとはいえ、特定の人種を悪く描くのはどうか? という抵抗感である。

 しかし、そうしたポリコレ的な考え方は、2020年のBlack Lives Matter(以下・BLM)運動で完全に吹き飛んだ。アメリカは在日米兵犯罪の一切を無視して日本のアニメだ漫画だお笑いだのにいちいち激怒し、それを根拠に日本人も黒人を差別してきた加害者だといってBLMを押し付けてきた。“沈黙は暴力”というスローガンを掲げてね。一方で日本人へのステレオタイプは平然と維持し続け、欧米で吹き荒れるアジア系への差別行為には沈黙している。理由は簡単で、加害者の多くが黒人だからだ。アメリカでは統計上、アジア系に暴力行為を働く人種は黒人が最も多い。実際に報道を追っていても、ほとんどの加害者が黒人という状況だ。

 その動向を見ていれば、今後アメリカが在日米兵犯罪と向き合う可能性は限りなく低く、これまで以上に隠蔽に動くに違いないという危機感を覚えるのは当然ではないか。戦後日本で連合軍による女性への買春や暴行が横行した結果、白人系と黒人系の孤児が各地で急増したことからもわかるように、米兵犯罪の加害者には黒人も多く存在するのだから。一般的に加害者が黒人だと知られている事件は1995年の沖縄少女暴行事件2016年のうるま女性暴行殺害事件ぐらいだろうけど、気になって調べてみたら2002年のキャサリン・ジェーン・フィッシャーさん暴行事件2006年の横須賀女性強盗殺人事件2008年の沖縄少女暴行事件横須賀タクシー運転手殺害事件2017年の沖縄米兵飲酒運転死亡事故も加害者が黒人だった。さらに今年(2021年)の7月1日にアメリカで起きたばかりの元在日米兵による日本人女性射殺事件も黒人によるものだった。

 日本では国籍と文化を第一のアイデンティティと考える向きが強いから、犯罪者の情報として人種が出ることは稀だ。だから顔写真が提供されない限り加害者の人種もわからない。顔写真が公開されるかはまちまちだし、そもそも在日米兵犯罪に関して日本人は充分な情報すら得られないんだからね。加害者の黒人率なんてわかるわけがないし、統計としても残っていないのではないか。黒人加害者には一切触れないというBLMの流れができた今、アメリカはこれらの犯罪をどう見るか? もちろん、なかったことにする。自分たちと同じアメリカ人(アジア系アメリカ人)が被害に遭っていても無視するのだ。日本人がどんなことをされようが、なんの興味も示さないに決まっている。そこに先述した“(たとえ史実であっても)黒人を悪く描くな”という風潮が重なれば、在日米兵犯罪のすべてが小倉事件と同じ運命を辿りかねない。

 BLM運動を見ていてわかったのは、アメリカ人のほとんどは米兵犯罪などまったく知らないということだ。さきほどは“一切を無視している”と書いたけれど、彼らはそもそも知らないのである。べつに全アメリカ人が知っているべきとは思わないけれど、しかしBLMを強制してくるくらい人種差別に敏感な層なら、在日米兵犯罪だって知っているだろうと考えるのは当然じゃないか? 少なくとも1995年の沖縄少女暴行事件ぐらいはね。しかしそれすらも知らない。1ミリたりとも知らない。知る気もない。そのくせ、日本人にはアメリカの歴史と習慣をすべて把握しろ、そして自分たちの理想通りに振る舞えと言ってくるのだ。

 そういう彼らの態度を見て、ポリコレという概念があほくさくなった。やつらは口では日本で純日本人と同じ扱いをされたいなどというが、その実は日本で純日本人をゴミのように扱う特権がほしいと思っているのだ。そうでなければここまで露骨に日本人——アジア系への暴力行為を無視したりしない。なぜそんな輩どものためにこちらがあれこれと配慮せねばならんのか。もうこんなくだらないことは終わりだ。ぜひこの「黒地の絵」を映像化しよう。黒人役はブラックフェイスにした日本人でよい。日本語もろくにできないのに日本のお笑い番組やアニメでキレ散らかした実績のある奴らなら、その絵面だけで確実にキレ散らかす。その流れに便乗して小倉事件の存在——米兵犯罪のすべてを世界に喧伝しよう。

 ——と言いたいところだが、現実的に考えれば、それはかなり難しいだろう。なぜなら清張自身がこの作品の映像化を熱望していたにも拘らず、今に至るまで実現していないからだ。清張のその熱望ぶりはすさまじく、「黒地の絵」の映像化のためだけに野村芳太郎とともに霧プロダクションを立ち上げたほどだった。それなのに計画が遂行されなかったのは、作品が映像化に向かなかったためとの噂がある。読んでみると、なるほどこれを映像化するのはいかにも厳しそうである。

 物語の舞台は終盤に朝鮮戦争戦死者の遺体を処理する死体処理班——Army Grave Registration Service、通称“エージャレス”に移る。そこでは人間としての原型を留めていない状態となった戦死者の遺体を修復する作業が行われるが、清張はこの描写にかなり力を入れている。いわずもがな、この戦死者の中には小倉事件の加害者である黒人兵たちも含まれているが、そもそも彼らが脱走したのは勝ち目のない、ただ死にに行くだけの戦地に送られることへの重圧と恐怖があったからだという。そして脱走兵が黒人ばかりだったのは、そうした運命を黒人だけに背負わせる背景——つまり、アメリカでの人種差別が起因とする説があるのだ。

 清張はこの説をしっかりと拾った。清張は彼らの非情な行為に憤りを覚えると同時に、そのような状況を作ったアメリカにも批判的な姿勢を示した——被害者である留吉に、加害者の黒人たちへの激しい復讐心を持たせると同時に、彼らへの憐憫の感情もみせるという形で。それはたった一言、一瞬ではあるけれど、しかし留吉の、つまり実際の被害者の受けたものを考えれば、とてつもない重さになる。そして事件のおぞましさと、被害者のやりきれぬ感情と、根本的な原因であった差別問題に切り込むには、遺体処理の様子をじっくり描写する必要があったのだろう。

 そうとなれば、映像化した際も当然ここの描写は曲げられない。だから原作通りに体の部位を失い人間の原型を留めていない遺体を山ほど作り、内蔵を摘出したり遺体にアレコレして修復していく場面を……って、めちゃくちゃ難しそうじゃない? 美術に膨大な時間と金をかけて精密に作らないとちゃちっぽくなって作品が台無しになりそうだけど、その辺りを忠実に再現すればするほど客入りが悪くなりそうで、そうなったら作る意味もない。まあ、実際のところどんな理由で計画が頓挫したのかは知らないけれど、私はこのあたりの割り切り方が難しいからではないかと感じた。

 ずいぶんと長くなってしまったけど、大作家が気合を入れて執筆しただけあって、やっぱりすごい作品だった。タイトルのセンスもすごく良くて、意味がわかった瞬間になるほど! と感服した。まあ、その辺も含めて西洋のリベラルは差別だなんだと騒ぐんだろうけどね。知るかよくそが。

装飾評伝

 あらすじ:明治から大正にかけて活躍した異端の画家・名和薛治を題材にした小説を書く計画は、彼の一番の理解者であった芦野信弘の訃報を受けて頓挫しようとしていた。諦めきれない私は、名和と芦野の関係者を探し歩き、彼らの人生を辿っていく。

 強烈な非日常を描いた3作目から、日常的なものを描いた最初の2作に性質が戻る。というか、1作目と似たような感じとしか思えなかった。前の作品のインパクトが強いから余計にかな。あくまで俯瞰的な視点だからサスペンスの度合いも低いしねえ。決してつまらないわけではないが、「黒地の絵」のすぐあとに持ってくると、どうしても普通だなあ。もっとも、「黒地の絵」みたいな話ばかりだったら、それはそれでしんどそうだけど。

真贋の森

 あらすじ:日本美術史界の権威であった本浦奘治は、弟子の津山孝造の才能を恐れるがあまり、津山と彼の弟子であった宅田伊作を凋落させ、自身に取り入っていた不才の岩野祐之を台頭させた。美術史家としての生命を絶たれた宅田は、彼らの不才を暴くべく復讐に乗り出す。

 いまのところ「黒地の絵」以外の作品は日常的な雰囲気の強いもので、残りもすべて同じ感じなのかなと油断していたところにこれだ。「黒地の絵」のような暴力的で悲劇的な話ではない。日本美術史界から不当に追放された男性が、封建的で権威主義な日本美術史のメッキを剥がしたい欲望から、贋作造りに奔走する話だ。

 しかし、この1から10まで人間の醜い欲望にまみれた世界は本当にすごい。人間の欲望によって自分の持つ人間的欲望を叶えられなかった男性が、他人の持つ人間的欲望につけいって、復讐心という人間的欲望を満たそうとするが、結局は人間的欲望によって頓挫する。頓挫した理由が語られた時、私はもう少しで「天才じゃん!」と口にしかけた。正直いえば、多くの読者は物語の途中で復讐劇が達成されないことを予想できると思う。私もなんとなく察してしまい、ただ清張が美術史界を批判したいだけの話だなと冷めた目で見ていたため、完璧なまでに欲望を描いた終わりが現れた瞬間に感動してしまった。

 最後に宅田が示した“小さな充実感”もとても人間的で、清張がこの作品で批判するものがあったとすれば、それは本浦や岩野たちだけでなく、宅田や彼の策略に乗った者たちも含めた美術史界だろうと思った。お見事。

紙の牙

 あらすじ:市役所で厚生課長を務める菅沢圭太郎は、愛人の昌子と温泉街にいた。本妻との仲が覚め切っていた圭太郎にとって、昌子の存在は癒しであった。しかし、その場面を市政新聞・明友新聞の記者である高畠久雄に目撃されたことで、彼の人生は大きく変わってしまう。

 うん、よくわからなかった。さすがに行政批判はわかるけど、登場人物というか人物関係が入り乱れていて頭がついていかん。まあ私のドタマのせいだろう。

空白の意匠

 あらすじ:地方新聞社の広告部部長・植木欣作は、自社の朝刊を見て血の気がひいた。自社最大の広告主・和同製薬の新薬・ランキロンの広告のすぐ上に、同薬品の薬害死亡事故の記事があったのだ。しかもそれは結果的に飛ばし記事だったことがわかる。責任者の植木の奔走の日々が始まった。

「紙の牙」から一転して簡素な人物関係とストーリーで読みやすい1作だった。飛ばし記事を書いたのは植木ではないのに、お詫び行脚に走り回されるのは植木。その努力の結果はあまりにも虚しい。しかし「紙の牙」に続いて新聞に辛辣な作品だ。清張本人が新聞社出身だから書きやすいということもあるのだろうが、記者時代に思うところがあったのかね。

草笛

 あらすじ:17歳の周吉が間借りしている部屋の隣に、ひとりの女性がやってきた。名は杉原冴子。22歳の既婚者だが、姑との関係が芳しくなく、離婚も視野に入れて家を出てきたという。周吉の目に映る冴子は大人びていてあまりにも眩しく、周吉はいつしか恋に似た感情を抱き始める。

 ミステリーでもサスペンスでもない恋愛ものである。夏目漱石の『三四郎』を思い出したけど、あれは青春小説に分類されるらしいから、これもそうなのかな。尤も、『三四郎』は途中までしか読んでないから、本当に同じ分類になるのかは知らんが(無責任)。初めての恋に心躍っているさまは素直に微笑ましい。でも周吉と同年代の頃に読んだら共感性恥心を発症しそう。「数年ぶりに卒業アルバムを開いて初恋の人の写真を見たら、記憶が美化していたことに気づいた」みたいな空気がすごいんですよ、これ。周吉が描いている冴子の美しさって全部主観だよね? って疑いたくなる。そのあたりの若さゆえの感情がよく描けていて、若い頃に読んだらヒャーってなりそう。

 あと最後の冴子の周吉さん、堪忍してねがよくわからなかった。周吉は17歳から5〜6年経った頃にその意味がわかったらしいが、そんな年齢はとっくに過ぎた私がよくわからないとはこれいかに。「そんなつもりはなかったんだけど、期待させちゃったのかしらね? だとしたら、死刑だけは堪忍してね?」みたいな感じ?

確証

 あらすじ:社交性に欠けた章二にとって、明るく献身的な妻・多恵子は自慢の存在であると同時に、自分の劣等感を刺激させる存在でもあった。そんな多恵子と同僚の片倉に不貞の匂いを感じ取った章二は、不衛生な娼婦と関係を持ってわざと性病に罹患し、ふたりの仲を暴こうとする。

 最後の1篇である。妻の不貞を突き止めるために出張を偽って不意打ちで帰宅してみたけど全部空振りだったし、会社を休んで妻を尾行しようとも考えたけど上手くできる自信はないし、私立探偵を雇う勇気は一向に出なかった。それなら、性病をうつせばいいんだ! ってこええよ! 不貞の事実を掴んだ上での復讐ではなく、なんとなく不貞してそうな気がするから、“確証”がほしいなあ——で、性病。ねーよ。いや、仮に不貞確定後の復讐でやるのもねーけど。わざと病気をうつすとか間接的な人殺しじゃん。

 そう思って読み進めていたら、間接的どころじゃなかった。急展開すぎるけど、違和感はない。そもそも、いきなり性病をうつすという突飛な行動も、章二の社交性の欠けた性格がよく表れていて、こいつヤベーだろとは思うものの、違和感を持たせることはないのだ。やっぱりうまいわあ。

………

 始めての清張だし、相性が良くなかったらどうしようか……。読み始める前の不安は杞憂に終わった。とはいえ、読書自体久しぶりだったから読み終えるまでに時間がかかったし、感想をまとめるのはさらに久しぶりだったから、これを書き終えるまでに2ヶ月くらいかけてしまったが(汗)。読みたかったのは「黒地の絵」で、確かに素晴らしい作品ではあったが、個人的な好みで言えば「真贋の森」が1番だった。しかし、BLMによってアメリカが戦後日本での米軍の歴史を一切合切消そうとしていることが露呈した今、「黒地の絵」はこれまで以上に日本にとって重要な作品になったと言えるだろう。清張の勇気に乾杯!

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