イギリス人作家のダフネ・デュ・モーリアによる同名小説の映画化。渡米したばかりのアルフレッド・ヒッチコックと『風と共に去りぬ』などで有名な敏腕プロデューサー・デイヴィッド・O・セルズニックがタッグを組んで製作した。アカデミー賞最優秀作品賞並びに撮影賞受賞作。セルズニックの“原作至上主義”によって原作に忠実な出来となっているが、それでも原作と異なる部分はある。以下、映画・原作ともに思いっきりネタバレします。

原作とは異なる印象……鍵はダンヴァース夫人?

 初めて映画を観た時、私は「レベッカはとんでもない性悪女だったけど、なんだかんだで本当はマキシムのことを愛していて、彼に殺されたかったんだなあ」と思った。しかしその解釈は原作を読むにつれてどんどん変わっていった。原作でのレベッカは、もうどうあがいても性悪女である。「マキシムのことはやっぱり愛してないし、自分が死んだ後マキシムが楽しく過ごしたら癪だから、罪悪感を背負わせてやろう」と、そう考えているようにしか思えなかった。映画は原作に忠実に作られていたはずなのに、なぜここまで印象が異なったのか。

 まず考えられるのは、レベッカに対する情報量が大きく異なる点だ。原作での“わたし”は、内向的ながら頑張って近所づきあいをするのだが、それはもちろん前妻のレベッカも同じだった。しかも彼女は“わたし”とは比べものにならないほど社交性が高かったし、もっと上手く付き合いをこなしていたので、まだ人々の記憶にも残っている。痴呆症と思われる老女(マキシムの祖母)までもがレベッカのことをはっきり覚えていて、それがなんとも不気味な印象を与えたものだったが、映画での“わたし”はマンダレイに引きこもりきりで近所づきあいはほぼないし、例の老女は登場すらしないので、レベッカの存在感も自然と薄れてしまっている。

 しかしそれ以上にレベッカの印象を変える原因となったのは、ダンヴァース夫人のキャラクターの違いだろう。原作・映画ともにレベッカに“心から仕えている”(byヒッチコック)のは同じだが、原作ではレベッカに存在を引っ張られているのに対して、映画ではむしろレベッカの存在を引っ張る形になっている。さきほど書いたように原作ではいろんな人がレベッカの話を持ち出すが、その辺がバッサリと切り取られている映画ではレベッカの話はほとんど夫人経由で出てくるのだ。原作のレベッカは夫人がいなくとも生きられるだろうが、映画のレベッカは夫人が死ねば同時に死ぬ感じになっている。

 その印象を決定的にしたのがラストシーンである。原作でも映画でもマンダレイが焼け落ちるのは同じだ。しかし焼け落ちる原因が明確に描かれているか・いないかという違いがある。明確に描かれているのは映画の方で、こちらではダンヴァース夫人が放火したことになっている。レベッカの死が自殺で片付き、これからは“わたし”とマキシムがマンダレイで楽しく過ごすだろう——。そうファベルから伝えられた夫人は、亡きレベッカを象徴するマンダレイが“わたし”に渡らぬよう放火し、マンダレイ——レベッカの部屋——で炎に呑まれることで、レベッカと心中する。つまり、夫人がいなければレベッカはマンダレイを支配できなかったわけだ。

 原作では、なぜマンダレイが焼け落ちたのかは明らかにされていない。問題のダンヴァース夫人は、火の手が上がる前にマンダレイから姿を消している。夫人はマンダレイに火を放った後に去って行ったのでは、と考える人もいるかもしれないが、レベッカへの崇拝具合は映画版とさして変わりはないし、そんな夫人がレベッカを残してひとり去るだろうか? もし夫人が放火したのであれば映画版と同じようにその場に残っただろう。なぜ夫人は去って行ったのか。そこには、レベッカの存在を強烈に残したいというデュ・モーリアの意図があるのではないかと思う。

 映画では“わたし”は医師のもとに行かず、マンダレイでマキシムらの帰りを待っているというシチュエーションだが、原作では“わたし”も医師宅に同行している。すべてを知った“わたし”は、マンダレイの帰路——マキシムの運転する車のなかで睡魔に襲われ、夢を見る。その夢はマンダレイで生活をしている“わたし”を描いたものだ。だが、次第にそこで生活をしているのは“わたし”ではなく、今は亡きレベッカだったとわかる。恐怖に目を覚ました直後に見たものこそ、燃え上がるマンダレイ——正確に言うと、それを示唆する描写——だった。つまり原作では“レベッカがマンダレイを燃やした”かのような演出がなされている。

 実にオカルトちっくだが、デュ・モーリアの作品はだいたいこんな感じだと思う。不明瞭で非現実的だけど、なんとなく受け入れてしまうような雰囲気・説得力を出すのがめちゃくちゃ上手い。そうしたデュ・モーリアの作風が1番よく出ているのは短編集『鳥』に収録されていた「林檎の木」だと思っているが、それについてはまたいずれ話すとして、話を『レベッカ』に戻す。

 “レベッカがマンダレイを燃やした”と印象付けるには、はっきり言ってダンヴァース夫人は邪魔な存在だ。夫人は“わたし”によって“デ・ウィンター夫人”が上書きされてしまうのが許せないわけだから、マンダレイが突然炎に包まれたとなれば、読者は真っ先に夫人が放火したと考えるだろう。デュ・モーリアはその考えを排除するために夫人をマンダレイから追い出したのではないかな。その上でこのラストを描いたことにより、レベッカはようやくマンダレイを支配できたのだと思う。原作でも夫人はレベッカの存在感を強める役割を果たしていたからね。彼女がいないことで、レベッカはひとりのキャラクターとして完成したのである。

 片やダンヴァース夫人に火をつけさせた映画は、夫人のレベッカへの想いが強調されすぎてレベッカの存在が霞んでしまった。だから「レベッカって本当はいい人だったんじゃないか?」とか「夫人にいつまでも想われてレベッカも迷惑だろう」とか、原作では考えられないような感想が出てくる。映画版の夫人は同性愛者だと指摘する人もいるようだけど、これは原作だけに触れた状態ならあまり浮かばない考えだと思う。映画とは逆パターンで、レベッカの存在が強烈なせいで夫人が若干霞んでいるので。でもヒッチコックの映画がたびたび同性愛的な要素があると指摘されるのを見ると、ヒッチコックは夫人にもっと明らかな同性愛要素を持たせたかったんじゃないかとも思う。もしもセルズニックが原作至上主義ではなくヒッチコックに好き勝手に作らせていたら、果たしてどのような映画が出来上がっていたのかすごく興味がある。

 そんな感じで原作とはラストが大きく異なるし、ヒッチコックもあんまり自由に作らせてもらえなくて不満があった映画だけど、必ずしもダメ映画ではないってことは強調しておきたい。ダンヴァース夫人の想いが爆発するのと同時にマンダレイが崩れる映画独自のラストシーンではかなりの高揚感を味わえるし、夫人役のジュディス・アンダーソンの演技も素晴らしい。原作の容姿——皮と骨だけの痩せこけた身体に大きな目が落ち窪んだ骸骨みたいな顔——とはずいぶん見た目が違うけど、それ以外は完璧だと思う。この映画で1番の当たり役。

 あと、“わたし”とマキシムがマンダレイで口論になるシーンの改変なんかも、ヒッチコックらしくてイイ。フリスが置き物がないって報告に来る辺りね。原作だとマキシムが新聞を読んでいるところに来るんだけど、映画だとふたりで新婚旅行のフィルムを廻しているところに来るんだよね。で、“わたし”の一言にカチンときたマキシムが、わざわざ映写機の前に歩み出て暗闇の中で怒りに満ちた顔を光で浮かび上がらせるの。あ〜、この“わざわざ”感、すごくヒッチコックっぽい! 全体的にカメラの動きもヒッチコック的だし、セルズニックにいろいろ言われつつも頑張ってもがいた形跡が見えるのがなんとなく楽しい。違う視点から見た『レベッカ』という感じで、原作ファンの人でも楽しめる映画じゃないかと思います。

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