グレース・ケリー
グレース・ケリー(Grace Kelly)はアメリカの女優。1929年、アメリカ・ペンシルベニア州でアイルランド系アメリカ人の父・ジョン・ブレンダン・ケリーと、ドイツ系アメリカ人の母・マーガレット・メイジャー・ケリーの間に第三子次女として生まれる。父はオリンピックのボート競技で3つの金メダルを獲得した伝説的なスカラーであると同時に、瓦礫製造業で成功した億万長者でもあった。生活は豊かだったが、五輪メダリストの父、水泳選手でペンシルベニア州初の女性体育教師となった母、将来父と同じく五輪のボート競技でメダリストとなる兄・ジョン・ジュニア、活発な姉のマーガレットと妹のエリザベスというスポーツ一家のなかで、グレースはひとり病弱気味でスポーツにも強い関心を持てず、孤立しがちになっていた。内気な少女の慰みになったのは美しい花、空想に浸れる本、そして空想を表現できる芝居であった。

 彼女が芝居に興味を持ったのは、父の実兄で伯父のジョージ・ケリーの存在が大きかった。彼はグレースと同じくスポーツ一家の中で唯一芸術を好む人間で、兄弟の中では浮いた存在だったが、のちに劇作家として才能を開花させ、グレースが生まれる頃にはピューリッツァー賞作家になっていた。グレースは自分と境遇が似通っていた伯父を敬愛しており、彼の仕事である演劇に惹かれるのも自然なことであった。12歳で地元の小さな劇団・オールド・アカデミー・プレイヤーズに参加すると、本格的に舞台と芝居に夢中になった。同年代の子供たちよりも背が高く大人びていた彼女は実年齢よりも年上の役をやることが多かったが、それを充分にこなせる能力を持っていた。ある講演で、すぐ側にいた共演者がセリフを忘れてしまった時、グレースはとっさに手にしていたバッグを落として時間を稼ぐと同時に、さりげなくバッグを拾いながら共演者に次のセリフを教えるという起点をきかせたことがあった。その才能は修道院の行事でも発揮され、演劇で聖母マリアを演じた際にはシスターたちをも感動させた。卒業アルバムには彼女は舞台や映画のスターになるでしょうという一文が添えられた。

 18歳になると人生の目標を女優に固め、反対する両親を説得してニューヨークの演劇学校・アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに入門する。間もなくモデルとしてスカウトされ、雑誌やCMに出演。その収入を生活費の足しにしながら演技の勉強に励んだ。19歳には学校を卒業し、バックス・カウンティー・プレイハウスの舞台『たいまつ持ち』に立ってプロの女優としてデビューを果たす。この作品は伯父・ジョージの作品であった。グレースの演技の評判は上々で、同作で主演を務めたベテランの舞台女優・ハイラ・ストッダードはのちにまだそれほどの演技経験がない頃だったのに、彼女は何をしてはいけないのか、という感覚をほとんど本能的に備えていましたと語っている。また、新聞の批評欄にも舞台経験が少ない若い女性にしては、ミス・ケリーはこのフットライトに照らされた洗礼を見事にやりおおせたと記された。

 順調に女優としての階段を登り始めたように見えたが、実際には数多くのオーディションに落選していた。その要因のひとつはグレースの身長にあった。彼女は身長172センチの長身で、さらに足も長かったため、他の共演者——特に男性と並ぶと悪目立ちしがちだった。それでも根気強くオーディションを重ねた結果、20歳の頃にスウェーデンの劇作家・アウグスト・ストリンドベリの『父』でブロードウェイ・デビューが決まった。主演はグレースよりもはるかに背の高いカナダ人俳優・レイモンド・マッセイで、グレースは彼の娘役であった。この舞台は興行的には芳しい成果を得られなかったが、グレースの評判は悪くなかった。当時のアメリカはテレビという画期的な発明に夢中になっていた頃で、グレースもその波に乗って多くのテレビドラマに出演した。

 その後、グレースは有力なタレント・エージェント会社であるミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ(以下・MCA)と契約。舞台よりも映画への出演を優先させていたMCAにより、ヘンリー・ハサウェイ監督の『十四時間』にてハリウッド・デビューを飾ることが決まる。役所は端役だったし作品は興行的に失敗したが、有名俳優・ゲーリー・クーパーが主演だったことも手伝ってグレースの知名度は多少なりとも上がった。映画の公開後、グレースはオレゴン州に住む少女からファンレターを受け取り、大いに喜んだ。その少女はグレースのファンクラブを結成したと言い、たびたび新しく加入したメンバーのことをグレースに報せてくれた。ほとんど無名の女優だったグレースにとって少女の手紙は大きな励みになった。

 しかし、グレースが無名女優だったのはほんのわずかな期間でしかなかった。『十四時間』の翌年にはフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』で再びゲーリー・クーパーと共演、しかも今度の役柄はクーパーの妻という大役だった。その仕事が終わると、グレースは大手マスメディアのメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約した上、名匠・ジョン・フォード監督の映画『モガンボ』で名優・クラーク・ゲーブルとエヴァ・ガードナーと並ぶ主演に抜擢。『真昼の決闘』は大ヒットを記録、そして『モガンボ』ではグレースの演技が高く評価されゴールデングローブ賞を受賞。さらにアカデミー助演女優賞にもノミネートされた。その仕事ぶりを見たサスペンス映画の巨匠・アルフレッド・ヒッチコックは、過去にグレースが参加していたカメラテストのフィルムを取り寄せて鑑賞したのち、彼女を次回作『ダイヤルMを廻せ!』のヒロインに決定した。

『ダイヤルMを廻せ!』の撮影終了後、ヒッチコックは次作『裏窓』でもグレースを起用することを決める。さらにジョージ・シートン監督も『喝采』のヒロイン役に彼女を当てた。1954年にはこの3作品に加え『緑の火・エメラルド』『トコリの橋』の合計5本のグレースの出演作が一気に封切られ、一躍脚光を浴びた。特に『裏窓』と『喝采』での演技は評価が高く、後者ではアカデミー主演女優賞を受賞。名実ともに一流スターの仲間入りを果たすが、一方でゴシップ記者から狙われる存在にもなり、共演者のレイ・ミランドやウィリアム・ホールデンらとの不倫関係を書き立てられたこともあった。グレースと噂になるのは一回りほど離れた年上の男性であることがほとんどで、これは彼女が父親から充分な愛情を得られなかった故のファザー・コンプレックスだったからだと指摘されることが多い。スポーツ主義者だった父は、スポーツを好まなかったグレースを評価しなかった。娘がアカデミー賞を受賞し、記者から感想を求められた時にも私には、グレースの受賞が信じられません。四人の子どもの中で、よりによってあの子が私の老後を慰めてくれるなどとは、思いもよりませんでしたと正直な気持ちを吐露している。

 グレースの人気はアメリカ国外にも広がっていた。特にフランスでは日に日に支持する声が高まり、フランス政府がアメリカ映画協会に1955年のカンヌ映画祭にグレースを出席させるよう要請したほどだった。グレースの渡仏が決まると、地元の雑誌がグレースとモナコの大公・レーニエ3世との対談を計画。この計画は実行に移され、対談以後も交流を深めたふたりは1965年1月に婚約を発表。数ヶ月後、グレースはモナコで家庭を築くために女優業を引退した。グレースが出演した映画は前述の8本と『泥棒成金』『白鳥』『上流社会』の3本を加えた11本のみであった。

 人気絶頂にいる女優の引退は多くのファンや関係者を嘆かせたが、それはヒッチコックも例外ではなかった。ヒッチコックはグレースを“雪をかぶった火山”——表面上はクールだが、内側には激しい情熱を感じさせる女優——と評した。次に何をするかわからないような彼女のミステリアスさはヒッチコックが理想とするサスペンスを描くのにぴったりだったし、ひとりの人間としても気が合ったから、自分のすべての映画をグレースで撮りたいと公言したこともあった。彼女の引退によってそれは叶わぬ夢となってしまったが、諦めきれなかったヒッチコックは1962年に『マーニー』の企画を立ち上げると、モナコに飛んでグレースと大公に会い、ヒロイン役での出演を依頼。公妃としての仕事に忙殺され芝居が恋しくなっていたグレースと、彼女の希望を尊重した大公は揃って出演を承諾するが、モナコ国民から反発を受けたため実現には至らなかった。

 その後は女優復帰の話は浮上せず、モナコ公妃として精力的に活動を続けていたが、1982年、公道で自動車を運転中に崖から転落して死亡した。52歳没。一説によればグレースには事故直前に脳卒中を起こしていた痕跡があったという。

逸話

関連エントリー

グレース・ケリー
アメリカグレース・ケリー(Grace Kelly)はアメリカの女優。1929年、アメリカ・ペンシルベニア州でアイルランド系アメリカ人の父・ジョン・ブレンダン・ケ ...
『ダイヤルMを廻せ!』
アメリカあらすじ:資産家のマーゴはテニスの花形プレイヤーだったトニーと結婚生活を送っているが、世界中を遠征する彼との生活に疲れ、いまでは推理作家の ...
『裏窓』
アメリカあらすじ:取材中の事故で左足を骨折して自宅療養中のカメラマン・ジェフ。自由に動くことすらままならない彼は、自宅の窓から愛用のカメラごしにご ...
『泥棒成金』
アメリカあらすじ:かつて手際鮮やかな宝石泥棒“キャット”として名を馳せたジョン・ロビー。戦時中のレジスタンス活動により恩赦を受け、現在は善良な人間と ...

last up:2019/02/07

© 1954 by Paramount Pictures.