グレース・ケリー(Grace Kelly)

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グレース・ケリー
グレース・ケリー(Grace Kelly)はアメリカの女優。1929年にペンシルベニア州で瓦礫製造業を営んでいたアイルランド系アメリカ人の父・ジョン・ブレンダン・ケリーと、ドイツ系アメリカ人の母・マーガレット・メイジャー・ケリーのあいだに第三子次女として生を受ける。フルネームはグレース・パトリシア・ケリー(Grace Patricia Kelly)。生誕90周年、没後30年以上となるいまなお伝説的スターとして輝き続ける彼女だが、意外にも幼い頃は目立たない存在であったという。これは内気で病弱気味な本人の性質によるところもあるが、それ以上にケリー家の存在が大き過ぎたからであった。

 ケリーの父・ジョンは、かつてオリンピックのボート競技で3つの金メダルを獲得した伝説的なスカラー。さらに母・マーガレットは元・水泳選手でペンシルベニア州初の女性体育教師だった。ふたりの才能を受け継いだ子供たち——長女のマーガレット、長男のジョンJr.、三女のエリザベスは、いずれもスポーツが得意で活発な性格に育った。特に長男のジョンJr.は、のちに父と同じくオリンピックのボート競技でメダリストになったほどだった。

 だが、この4人兄弟の中で唯一グレースだけはスポーツに強い関心を持てなかった。運動音痴というほどではないにせよ兄弟のあいだではその能力は劣っているように見えたし、前述の内気さと病弱さも相まって自然とスポーツから距離を置くようになっていた。それはスポーツが優れた人格を形成すると考えていた父から思うように愛情を得られず、一家から孤立することを意味していた。

 しかし幸いにも、彼女はすぐにひとりで楽しむ術を覚えた。それは美しい花を観ること、先人たちが綴った本を読みふけ空想に浸ること、そして空想を具現化する芝居であった。グレースはその楽しさを父の実兄で伯父のジョージ・ケリーと共有した。ジョージはグレースと同じくスポーツ一家だったケリー家の中でひとり芸術に関心を持つ浮いた存在だったが、のちに劇作家として才能を開花させ、グレースが生まれる頃にはピューリッツァー賞作家になっていた。境遇の似ていた伯父を敬愛していたグレースは、次第に彼の仕事である演劇の世界に憧れるようになった。

 12歳で地元の小さな劇団・オールド・アカデミー・プレイヤーズに参加すると、本格的に芝居に夢中になった。同年代の子供たちよりも背が高く大人びていた彼女は実年齢よりも年上の役をやることが多かったが、それを充分にこなせる能力を持っていた。ある講演では、すぐ側にいた共演者がセリフを忘れてしまった時、とっさにアドリブで時間を稼ぐと同時に、さりげなく共演者に次のセリフを耳打ちするという機転を利かせ、大人たちを感心させた。卒業アルバムには彼女は舞台や映画のスターになるでしょう※1という一文が添えられた。

 18歳になると人生の目標を女優に固め、反対する両親を説得してニューヨークの演劇学校・アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに入門する。間もなくモデルとしてスカウトされ、雑誌やCMに出演。その収入を生活費の足しにしながら演技の勉強に励んだ。

 19歳には学校を卒業し、バックス・カウンティー・プレイハウスの舞台『たいまつ持ち』に立ってプロの女優としてデビューを果たす。この作品は伯父・ジョージの作品であった。グレースの演技の評判は上々で、同作で主演を務めたベテランの舞台女優・ハイラ・ストッダードはのちにまだそれほどの演技経験がない頃だったのに、彼女は何をしてはいけないのか、という感覚をほとんど本能的に備えていました※1と語っている。また、新聞の批評欄にも舞台経験が少ない若い女性にしては、ミス・ケリーはこのフットライトに照らされた洗礼を見事にやりおおせた※1と記された。

 順調に女優としての階段を登り始めたように見えたが、実際にはグレースは数多くのオーディションに落選していた。その要因のひとつはグレースの体にあった。彼女の172センチの長身とそれに似合った長い脚は他の共演者——特に男性と並ぶと悪目立ちしがちだったのだ。

 それでも根気強くオーディションを重ねた結果、20歳の頃にスウェーデンの劇作家・アウグスト・ストリンドベリの『父』で主人公の娘役としてブロードウェイ・デビューが決まった。主演のカナダ人俳優・レイモンド・マッセイはグレースよりもはるかに背が高かったから、彼女の長身は何も問題にならなかった。この舞台は興行的には芳しい成果を得られなかったが、グレースの評判は悪くなかった。当時のアメリカはテレビという画期的な発明に夢中になっていた頃で、グレースもその波に乗って多くのテレビドラマに出演できた。

 その後、グレースは有力なタレント・エージェント会社であるミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ(以下・MCA)と契約。舞台よりも映画への出演を優先させていたMCAにより、ヘンリー・ハサウェイ監督の『十四時間』にてハリウッド・デビューを飾ることが決まる。役所は端役だったし作品は興行的に失敗したが、有名俳優・ゲーリー・クーパーが主演だったことも手伝ってグレースの知名度は多少なりとも上がった。映画の公開後、グレースはオレゴン州に住む少女からファンレターを受け取り、大いに喜んだ。その少女はグレースのファンクラブを結成したと言い、たびたび新しく加入したメンバーのことをグレースに報せてくれた。ほとんど無名の女優だったグレースにとって少女の手紙は大きな励みになった。

 しかし、グレースが無名女優だったのはほんのわずかな期間でしかなかった。『十四時間』の翌年にはフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』で再びゲーリー・クーパーと共演、しかも今度の役柄はクーパーの妻という大役だった。その仕事が終わると、グレースは大手マスメディアのメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約した上、名匠・ジョン・フォード監督の映画『モガンボ』で名優・クラーク・ゲーブルとエヴァ・ガードナーと並ぶ主演に抜擢された。

『真昼の決闘』は大ヒットを記録、そして『モガンボ』ではグレースの演技が高く評価されゴールデングローブ賞を受賞。さらにアカデミー助演女優賞にもノミネートされた。その仕事ぶりを見たサスペンス映画の巨匠・アルフレッド・ヒッチコックは、過去にグレースが参加していたカメラテストのフィルムを取り寄せて鑑賞したのち、彼女を次回作『ダイヤルMを廻せ!』のヒロインに決定する。

『ダイヤルMを廻せ!』の撮影終了後、ヒッチコックは次作『裏窓』でもグレースを起用。さらにジョージ・シートン監督も『喝采』のヒロイン役に彼女を当てた。1954年にはこの3作品に加え『緑の火・エメラルド』『トコリの橋』の合計5本のグレースの出演作が一気に封切られ、一躍脚光を浴びた。特に『裏窓』と『喝采』での演技は評価が高く、後者ではアカデミー主演女優賞を受賞した。

 名実ともに一流スターの仲間入りを果たしたグレースだが、一方でゴシップ記者から狙われる存在にもなり、共演者のレイ・ミランドやウィリアム・ホールデンらとの不倫関係を書き立てられたこともあった。噂になるのは一回りほど離れた年上の男性であることがほとんどだったが、これは彼女が父親から充分な愛情を得られなかった故のファザー・コンプレックスだったからだと指摘されることが多い。スポーツ主義者だった父は、スポーツを好まなかったグレースを評価しなかった。娘がアカデミー賞を受賞し、記者から感想を求められた際にも父は私には、グレースの受賞が信じられません。四人の子どもの中で、よりによってあの子が私の老後を慰めてくれるなどとは、思いもよりませんでした※1と吐露している。

 グレースの人気はアメリカ国外にも広がった。特にフランスでは日に日に支持する声が高まり、フランス政府がアメリカ映画協会に1955年のカンヌ映画祭にグレースを出席させるよう要請したほどだった。彼女の渡仏が決まると、地元の雑誌はグレースとモナコの大公・レーニエ3世との対談を計画。対面したふたりは花好きの共通点もあって意気投合し、対談以後も交流を深めて1965年1月に婚約を発表。数ヶ月後、グレースはモナコで家庭を築くために女優業を引退する。彼女が出演した映画は前述の8本と『泥棒成金』『白鳥』『上流社会』の3本を加えた11本のみであった。

 人気絶頂にいる女優の引退は多くのファンや関係者を嘆かせたが、それはヒッチコックも例外ではなかった。ヒッチコックにとってグレースは“雪をかぶった火山”——表面上はクールだが、内側には激しい情熱を感じさせる存在——であり、次の行動を予見しづらいミステリアスな雰囲気は彼が理想とするサスペンスを描くのにぴったりだった。ひとりの人間としても気に入っており、自作のすべてをグレースで撮りたいと公言するほど彼女に惚れ込んでいた。

 グレースが引退してもなお彼女の才能を惜しんだヒッチコックは、1962年に『マーニー』の企画を立ち上げるとモナコに飛んでグレースと大公に会い、ヒロイン役での出演を依頼した。公妃としての仕事に忙殺され芝居が恋しくなっていたグレースと彼女の希望を尊重した大公は揃って出演を承諾するが、モナコ国民から猛反発を受けたため実現には至らなかった。

 その後は女優復帰の話は浮上せず、モナコ公妃として国と国民のために精力的に活動した。だが、1982年、公道で自動車を運転中に崖から転落して急逝する。52歳の若さだった。一説によれば、グレースの体には事故直前に脳卒中を起こしていた痕跡があったという。

逸話

出典

※1…ジェームズ・スパダ(仙名紀 訳)『グレース・ケリー―プリンセスの素顔

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