1953年2月、ヒッチコックは次回作のネタ探しのため、最新の舞台作品の調査を始めた。目をつけたのは1952年の夏頃に上演されたフレデリック・ノット作の『ダイヤルMを廻せ!』だった。同作の映画化権はすでにイギリスの映画プロデューサー・アレクサンダー・コルダが獲得していたため、ヒッチコックは彼の手から権利を買い取ることになった。
映画化権が手に入ると、キャストも迅速に決定した。メインキャストは過去に『パラダイン夫人の恋』で起用したベテラン俳優のジョン・ウィリアムズ、同じくベテランのレイ・ミランド、『逃走迷路』で起用したロバート・カミングス、そしてフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』でゲーリー・クーパーの相手役を務めた新人女優・グレース・ケリーだった。
ケリーは同年10月に公開される『モガンボ』で注目されることになるが、本作に起用された時点ではまだ無名に近い状態だった。だが、ヒッチコックは試写会で観た『モガンボ』とグレゴリー・ラトフが『タクシー』を製作した際に撮っていたスクリーンテストに映ったケリーの姿を見て、この映画を魅力的なものとするにふさわしい女優だと感じ、すぐに契約を持ちかけた。
撮影は7月30日から行われたが、ヒッチコックにとってはストレスの溜まる現場となった。その原因は、本作が3D映画という点にある。当時のアメリカは家庭用テレビが普及し始めた時期で、家で暇を潰せるようになった人々の多くは映画館に足を運ばなくなっていた。映画業界はただ映像を提供するだけではいけないという危機感から、テレビとの差別化を図り始めた。そのひとつが3D映画で、『ダイヤルMを廻せ!』もその流れを受けて製作したものだった。
だが、当時の3Dカメラは非常に巨大で動きが制限されていた上、クローズアップを試みるといとも簡単にピントが外れるなど、大変扱いづらいものだった。それゆえに入念なリハーサルが必要になったが、思い描くショットは実現できないという二重苦を味わうことになった。
撮影は9月25日に終了し、完成した映画は翌年の1954年5月に公開された。その頃にはヒッチコックを悩ませた3Dは廃れ始めており、本作を2D映像で上映する映画館もあったという。
逸話- 作中にはダイヤル式電話とそれを廻す指がクローズアップで映るカットがあるが、ここでの電話と指はともに模型である。これは3Dカメラが極端なクローズアップに耐えられなかったためで、模型も非常に大きなものになった(画像)
- 3Dで観賞した時の立体感を際立たせる目的でローアングルが多用されている。地面と同じ低さから撮影することもあったため、床に穴を掘ってそこにカメラを設置できるようにしていた
- 3D映画はふたつのフィルムをスクリーンに重ねて上映する必要があるが、多くの映画館では映写機が2台しかなくフィルムの入れ替えができなかったため、作品の途中で休憩時間を設けるという対策を取った。「INTERMISSION」(「休憩」の意味)の文字が表示されるカットはその名残である
- 足音が強調されるように本物の床を敷く、俳優の前に物を置いて奥行きを出す、ほぼ部屋の一室のみでストーリーを展開させるなど、舞台劇が原作である点を尊重した作りになっている
- ベッドから起き上がるマーゴ(グレース・ケリー)にはビロードのローブを羽織らせる予定だったが、ケリーが「人目につかない状況でこんなに贅沢な服を着るのは不自然」と意見したため、ナイトガウンに変更された
- レイ・ミランドとグレース・ケリーは、この共演をきっかけに真剣交際に発展している。しかしミランドが妻帯者であったことから結婚には至らなかった

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トニーの同窓会の出席者(向かって左)
ヒッチコックが生涯を通じて高く評価した女優・グレース・ケリーを初めて起用した作品である。だが、ヒッチコックは従来とは異なる撮影方法が求められた3Dカメラには苦い思いがあったようで、その結果できた映像にも満足できず、本作には愛着を持てなかったらしい。
しかし、限られた環境のなかでもヒッチコック流のカメラワークを生み出そうともがいた形跡は充分に観て取れるし、まだ駆け出しながらレイ・ミランド、ロバート・カミングス、ジョン・ウィリアムズといったベテラン俳優たちに引けを取らない存在感を発揮させるグレース・ケリーの演技など、見どころは多い。少なくとも、ヒッチコックとケリーのファンであれば観て損はないだろう。
2012年に発売されたBlu-rayディスクでは、長らく視聴が不可能であった3D映像による観賞が可能になっている。3D映画に不満を持っていたヒッチコックだが、それでも観客の期待を裏切らぬよう工夫を凝らして撮影したそうなので、3Dの再生が可能な環境にある方には3Dでの観賞をおすすめしたい。かくいう私は3D版を観たことはないのだが……。