あらすじ:ヴァン・ホッパー夫人のレディズ・コンパニオンとしてモンテカルロに訪れた“わたし” は、イギリスにある広大な屋敷・マンダレーの主人であるマキシミリアン・デ・ウィンターと運命的な出会いを果たす。彼と死別した妻・レベッカに代わって新たなデ・ウィンター夫人となったわたしは、ヴァン・ホッパー夫人と別れ、彼とともにマンダレーの帰路につく。しかしそこには、至るところにレベッカの存在が遺っていた。

映画にはなかった強烈な存在感

 この本を手に取った理由としてアルフレッド・ヒッチコックの同名作を挙げる人は少なくないだろう。かくいう私もそのひとり。映画版『レベッカ』は、原作改変魔であるヒッチコックが原作を尊重して作った数少ない作品のひとつだが、実はラストの展開が大きく異なっている。理由は定かではないが、憶測するにヒッチコックはレベッカに忠義の限りを尽くすダンヴァーズ夫人の存在をよりクローズアップしたかったのではないだろうか。

 そもそも映画が原作を尊重した作りになったのはプロデューサーの意向によるもので、ヒッチコックはほかの作品と同じく原作を大幅に改変するつもりでいたというエピソードが残っているのだが、私はその名残がラストシーン——つまりダンヴァーズ夫人の描写に現れているのではないかと考えている。また、映画版は原作と比べるとレベッカのキャラクター描写が弱いといわざるを得ず、原作と同じように不明瞭な形で締めてしまうと観客の混乱を招く可能性が高いと判断されたのかもしれない。

 映画を初めて鑑賞したときはレベッカというキャラクターに対して「マキシムの罪悪感とダンヴァーズ夫人の忠誠心から、いつまでも安らかに眠ることのできない哀れな女性」という印象を抱いたものだったが、それは原作に目を通した途端に「安らかに眠る気などさらさらなく、マキシムの現在にはむしろ大いに満足している、“哀れ”という言葉とは無縁の女性」に変わってしまった。原作ではレベッカはひとりのキャラクターとしてどんどん存在感を増していくのだが、映画ではそこまでの存在感を作り出せておらず、それが印象を大きく変える原因となったのだろう。

 ヒッチコックは「活字で見事に完成された作品を映像で再現することなどできない」という美徳を持っており、文学的な完成度が高い作品を題材に選ぶことはなかったという。それは彼が原作の『レベッカ』に対してあまり高い評価を下していなかったことを意味するのだが、原作を尊重して作ったにも関わらず、原作通りのラストに導くことができなかったのは、まさにヒッチコックのいうところの「完成された活字は映像で再現できない」ためだったのでは——という皮肉っぽい考えが浮かんでくる。

 とはいえ私は正直なところ、この『レベッカ』を「活字で見事に完成された作品」と評するのは少し抵抗がある。というのも、エッジクームでの遺体確認方法があまりにも雑だからだ。その遺体は一切の衣服をもぎ取られ、顔や指紋による個人の判別も不可能という悲惨な状態だったと記されている。にも関わらず、たったひとりの証言によってそれを特定の人物と正式に判断したという展開は、警察の存在を蔑ろにしすぎているように思う。せめて背格好や年齢が酷似していたぐらいの情報はほしかったものだ。

 しかしこうした疑問は、私がサスペンスやミステリの価値観に毒されているがゆえに出てきたものとも考えられる。それらの分野に属する作品であればこの疑問もひどい欠点になりうるが、幸い『レベッカ』はそうではない。物語の軸は犯罪ではなく、またべつのところに存在するのだから、この疑問も些細なものとして片付けても問題はない。ただ、やはり例の分野に毒されている私には、本筋とは無関係だとわかっていても妙に引っかかってしまう。ここは読み手のものの見方によってに大きく左右されるところかもしれない。

 また、映画から入った身からすると、映画版と比べてずいぶんひねくれている「わたし」にも少しついていけないところがあった。原作における彼女は妄想癖が強く、人を見る目も斜めすぎる。さらに独占欲もすごい。夫であるマキシムに対するものならまだしも、それが代理人のフランクにまで及んでいるかのような描写もあって驚いた。こうしてみると、自信と行動力と外見的な美しさ以外はレベッカとわたしはわりと似ていて、鏡のような存在にも思えてくる。最後のわたしの夢も、これを示唆するものだったのではないかと勘ぐる気持ちが出てこないこともない。

 さて、本作は長らく大久保康雄による翻訳で親しまれてきたのだが、2008年以降は茅野美ど里が新たに訳したものが出回っている。私が初めて読んだ『レベッカ』も、この茅野さんの訳であった。全体的にあっさりとした訳ですらすらと読めるのはいいのだが、反面言葉選びに少々の難があるようにも感じた。あほくそまじめといった作品の世界にそぐわない間が抜けていて下品な言葉もそうだが、それ以上に違和感があったのは女学生が使うような言葉としているものだ。なんてったって抜群ですって、女学生どころか老若男女誰も使うイメージがないし、単純に意味がよくわからない。大久保康雄による旧訳で『レベッカ』に触れた方々にとってはこの新訳は受け入れ難いらしく、評判も芳しくないようだ。私は大久保康雄の旧訳に目を通したことがないから受け入れ難いというほどではなかったが、それでも違和感があったことは記しておく。

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last up:2014/07/03