あらすじ:架空の国・バンドリカ。ロンドン行きの列車の駅前にある宿は、独身最後の旅行を終えたアイリスを始め、クリケットファンの2人組、いわくありげな男女、民族音楽研究家など多くの客で溢れていた。職を辞して帰郷する予定の老女は、外から美しいギターの音色が響き渡ると熱心に耳を傾け、最後には投げ銭を与えた。だが、地面に落ちた硬貨は永久に拾われることはなかった。

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メイキング

 1937年9月、ヒッチコックの名声は『暗殺者の家』や『三十九夜』の成功によってハリウッドにも響き渡っていた。現地の映画関係者の多くが自身に興味を持っていると知ったヒッチコックは、ハリウッド行きを現実的に捉えるようになった。しかし、ゲインズボロー・ピクチャーズとの契約を満了するには、イギリスで最低でもあと1本映画を撮らなければいけない。そこでヒッチコックはなるべく早く撮影を終えられるよう、すでにゲインズボローが映画化権を獲得している小説の映画化を計画。だが、そのなかにはヒッチコックが撮りたいと思うようなものは見つけられなかった。

 そんな折、プロデューサーのエドワード・ブラックに手渡されたのが、エセル・リナ・ホワイトの小説『The Wheel Spins』を基にして作られた脚本だった。これはヒッチコックと同じくゲインズボローと契約していたシドニー・ギリアットとフランク・ローンダーのふたりが1936年に完成させたもので、ロイ・ウィリアム・ニール監督で映画化が予定されていた。だが、ロケーション先のユーゴスラビアで撮影の許可が下りず、製作は中断。さらに監督のニールが意欲をなくしてしまい、計画そのものが白紙になっていた。この映画に大きな期待を込めていたブラックは、ヒッチコックが映画のネタに困っていると知ると、ぜひともこれを撮ってほしいと勧めた。

 10月に脚本を見たヒッチコックは、映画化するに充分な素材だと判断。冒頭と結末にだけ少し手を加えた後、すぐに撮影の準備に入った。主要なキャストに選ばれたのは、ゲインズボローと契約していたマーガレット・ロックウッド、舞台俳優のマイケル・レッドグレーヴ、そして大物女優のデイム・メイ・ウィッティ。当時レッドグレーヴは映画にまったく興味がなかったが、ブラックに熱心に口説かれたことや、当時一緒に仕事をしていたジョン・ギールグッド(『間諜最後の日』主演)からヒッチコックとの仕事を薦められたこともあり、渋々ながら役を引き受けた。

 撮影は1937年12月に終了し、1938年年1月にはおおかたの作業も完了した。同年10月に一般公開されると、多くの観客は絶賛の声をあげた。それは遠く離れたアメリカでも同様で、『ニューヨーク・タイムズ』などは1938年のベストフィルムに選んだほどだった。ヒッチコックがハリウッドに飛んだのは、この熱狂の最中のことであった。

逸話

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管理人より

 英国時代のヒッチコック映画のなかでも、抜群の知名度と人気を誇るのが本作である。やたらに謎めかしいシナリオや敵対側の行動のまどろっこしさなど、のちの大作『北北西に進路を取れ』を連想させるところが多いが、『北北西—』のキャラクターはあくまでサスペンスを生み出すための“捨て駒”的な扱いだったのに対して、本作のそれはしっかりと肉付けされている印象を受ける。

 わずかな時間を過ごしただけの老女を“私の友達”と称し、心の底からその身を案じるアイリスの純粋さなどは心を打たれるほどだが、やはりなんといっても目を引くのはクリケットファンの2人組だろう。実に愉快な三枚目だが、ストーリーにある上質なサスペンスを邪魔することはなく、絶妙なタイミングでそのキャラクター性を発揮してくれるため、映画を観た誰もが愛さずにはいられない存在となっている。初見では気付かないような何気ないやりとりに隠された伏線もあり、複数回の鑑賞にも耐えうる作品だ。

 この映画にはヒッチコック最盛期にみられる映像の力強さはまだ存在しない。そのためかどことなくB級っぽさを感じることは否めないが、上述したキャラクターの完成度や精密な伏線のおかげで、B級的ながらも厚みのある映画に仕上がっている。むしろその点にだけ注目すれば、最盛期のヒッチコック以上の魅力があると言っても良い。ヒッチコック未経験の方にはもちろん、最盛期のヒッチコックはどうも合わないという方にもおすすめしてみたい1本である。

last up:2016/09/27