あらすじ:米国貴婦人の付き人をしている“わたし”は、旅行先でマキシミリアン(マキシム)・デ・ウィンターと出会う。彼は有名な英国の大屋敷“マンダレイ”の主だが、前妻のレベッカを海難事故で亡くして以来、寂しく過ごしているという。その寂しさを癒したのは、他でもないわたしだった。求婚を受けたわたしは、デ・ウィンター夫人となってマンダレイに足を踏み入れる。

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メイキング

 1938年12月、『バルカン超特急』を撮り終えたヒッチコックは、ハリウッドの映画プロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックのエージェントと本格的に交渉を重ねていた。ヒッチコックは彼らに対して、映画化したい題材としてイギリスの作家・ダフネ・デュ・モーリアの新作『レベッカ』を挙げた。それはまだゲラの段階だったが、ヒッチコックはひどく興味を惹かれ、迅速に映画化権を取得しようとした。だが、デュ・モーリア側が提示した金額は想像以上に高く、ヒッチコックは計画を断念せざるを得なくなっていた。その状況は、セルズニックがゲラを目にした時に一気に変わった。彼は『レベッカ』に魅せられ、映画化をプロデュースしたくてたまらなくなった。

 ヒッチコックは1939年2月にアメリカに住居を移し、4月には正式にセルズニックと契約。それからはアメリカの地で妻のアルマと当時の秘書でのちに脚本家となるジョーン・ハリスンとともに『レベッカ』の脚本に取り組んだ。脚本は6月には仕上がった。だが、それを見たセルズニックは大きな失望を覚えた。届いた脚本には、原作とは全く異なるストーリーが描かれていたからだ。彼はこの脚本を却下し、原作に忠実なものを作り直すよう指示した。それに対して今度はヒッチコックが失望した。彼は原作とは違う“新しい『レベッカ』”を作りたかったのだ。結局、仕上がった脚本はセルズニックの意向が大きく反映されたものとなった。

 8月になるとキャストも決まり、翌9月には撮影が開始された。だが、ヒッチコックを始めとしたスタッフたちは仕事に身が入らなかった。同月はポーランドがドイツ軍に侵攻され、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告するなど、戦争の色が一気に濃くなっていたためだ。『レベッカ』のキャストにはマキシム役のローレンス・オリヴィエを筆頭にイギリス出身者が多く、皆祖国にいる家族や知人を考えると気が気でなかったし、それはヒッチコックも同じだった。さらに撮影現場では作品に深く関わりたいセルズニックと干渉を嫌うヒッチコックが相容れずにいたことも重なり、撮影スケジュールは遅れに遅れたという。

 しかし完成された『レベッカ』には、そうした世界情勢や現場の混乱を想わせることのない美しい映像と見事に描かれたゴシック・ロマンがあった。公開後の評判も申し分なく、アカデミー賞では11部門にノミネートされた結果、最優秀作品賞と撮影賞を受賞した。

逸話

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管理人より

 ヒッチコックのハリウッド第1作。アカデミー賞の11部門にノミネートされ、最終的には最優秀作品賞と撮影賞を受賞した輝かしい作品である。その一方でヒッチコックらしいかというと大いに疑問が残る映画でもある。そうなった大きな原因として、ヒッチコックとプロデューサーの価値観の違いが挙げられる。特に映画の種となる原作についての考え方は双方で正反対と言ってもよく、理想の映像を追求するためには原作を大きく改変することも厭わないヒッチコックと、原作に忠実な映画を作ることを美徳としていたセルズニックは当然のことながら相容れることは難しかった。結局はヒッチコックはセルズニックに従う形になったため、自分らしさを充分に発揮できなかったのである。

 さらに不運だったのは、デュ・モーリアの原作にサスペンス性が欠いていたことだ。サスペンス性がまったくないわけではないのだが、それが”ゴシック・ロマンス”と評されることからもわかるように、ヒッチコックが好んだ犯罪をモチーフにしたサスペンスからは掛け離れていた。これもヒッチコックらしからぬ映画が出来上がった原因といえるだろう。

 しかし、カメラワークを始めヒッチコックがヒッチコックらしさを出すために奮闘した形跡が見られる部分も多く、ヒッチコックファンから見ても決して駄作にはなっていない。ヒッチコック流のサスペンスを期待すると肩透かしを喰らってしまうことは否めないが、ヒッチコック映画に魅了された経験があるならば1度は見ておきたい映画だろう。上述したように原作に忠実な作りを目指したこともあり、原作の雰囲気はよく再現されているので、原作ファンにもおすすめしたいところです。

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last up:2016/11/07